師走(しそう)でございます。
早いものでもう12月。
ついこないだカウントダウンジャンプをしたと思ったらもう師走(しそう)です。
12月になった瞬間、TVやネットではクリスマス一緒くたになります。もうおせち料理のCMや広告なんかも見受けられます。
そういったものを見ると気持ちが年末モードになってきますね。
どこか忙しない師走(しそう)を肌で感じ始めた今日この頃。
PCからブログをご覧になって下さっている方、当ブログの雰囲気ガラッと変えてみました。
どうでしょうか。
多分来月になったら2024年モードにするとか言ってまた直ぐ変えます。
で、さっきからわざとらしく書いていますが、正解は師走(しわす)でございます。
そろそろこの辺りで、訂正しておかないと「うわ。ぴあかなさんって平成初期型なんでしょ?やっぱゆとり~」と、学のない大人だと思われそうなので正しくしておきます。
いや、盛りました。学はない。
以前、職場で話題になったのが、○と×の色のイメージは何?です。
子どもたちに出す○×クイズの教材を作る時に意見が割れました。
今は師走を例に挙げて、正解を赤字○、不正解を青字×にしてみたのですが皆さんどういったイメージをお持ちでしょうか。
次の①、②から選んで読み進めてみて下さい。
- ① 赤○=正解 青×=不正解 パターン
- ② 青○=正解 赤×=不正解 パターン
赤丸という言葉があるくらいだから職場では『① 赤○=正解 青×=不正解 パターン』が過半数を勝ち取りました。
でも僕は『② 青○=正解 赤×=不正解 パターン』を選びました。
なんでかって、青は「やっていいよ=許可=正解」、赤は「やっちゃいけないよ=不許可=不正解」というイメージから来ています。
完全に脳内が道路標識を基準として動いていますね。
道路標識で考えてみると
青は「こっち一通だよ~」「ここは国道1号線だよ~」「大阪まで○kmだよ~」とか緩い印象ですが、
赤は「ここ止めんじゃねぇ!駐禁切るぞ!」「止まれ!死にてぇのか!」「徐行しろ!その足へし折るぞ!」なんて強めの指示、メッセージ性を感じます。
でもクイズ番組なんか見ていると圧倒的に『① 赤○=正解 青×=不正解 パターン』が多いから、こっちの方が一般的には多くの人が抱くイメージなんでしょうね。
そういう事で、色にはそれぞれの人が持つイメージというものがあります。
○×や道路標識等、可視化され多くの人が共通して頻繁に目にする事で、「この色はこんな感じがする」と言った色の共有イメージが自然に刷り込まれていっているのかと思います。
わかりやすい例が信号機かな。
青(緑)=許可
黄=注意
赤=不許可
いちいち「青になる。進んで良いんだ!」「赤だから止まらなきゃいけない!」と入念な確認作業が必要な程、多くの人は信号機に対して意識をしなくとも、その色を見るだけで無意識に色の指示に従うことが出来ると思います。
色が人間をコントロールする力は凄いんだなーと思います。
それでここからが今日の音楽の話題なんですが、
五感の中で、『色』と一番密接に結びつくのは間違いなく『視覚』です。
色とは可視化されたものであって、それを捉える人間の器官は『目』になるわけです。
そして『音楽』は言わずもがな『聴覚』、つまり『耳』で捉えます。
ではよく聞く『音色』とはどういったものでしょうか。
これは音の強弱、振幅の変化から感じ取れる音の違いであって、色という字がついていますが『視覚』に頼るものではありません。
そもそも『音』とは可視化されたものではありません。
音楽を聴いてイメージする映像(『色』)は聞き手側にある程度委ねるんじゃないの?
と思う方も多いと思いますが、『聴覚』と『視覚』、つまり『音』と『色』の融合を1つの演奏の中で試みた作曲家がいるのです。
それが近代ロシア音楽作曲家のA.スクリャービン(1872~1915)。
ちょっとクラシック音楽詳しいよって方なら知ってる作曲家だと思います。
初期の頃は『ロシアのショパン』と言われる程、作品構造や旋律がショパンからの影響を強く受けています。
後期作品ではピアノ作品では従来の調性のある(明確なコード)音楽から徐々に脱却して、無調に近い音楽を模索し始めます。
それは20世紀に誕生する無調音楽の先駆けにもなりました。
僕は音大生時代に、スクリャービンの初期のピアノ曲を数曲弾いたことがあります。
「なるほどショパンっぽいな!」とたくさん思わせてくれる程、メロディー、フレーズ、伴奏形態、楽曲構造が似ていました。恐らくショパンが長生きしたらこんな曲も書いたんじゃないかって思うほどの後継っぷり。
代表的な作品といえば後期の『ピアノソナタ第7番【白ミサ】』、『ピアノソナタ第8番【黒ミサ】』あたりではないでしょうか。
スクリャービンが愛用した神秘和音というものが多用されておりもはや調性が機能していません。
参考:ピアノソナタ第8番【黒ミサ】
↓↓
話が逸れましたが、どのようにしてスクリャービンが音楽を『聴覚』と『視覚』で捉えるようにしようとしたのか。
スクリャービンは自身の持つ『音』のイメージを可視化された色彩で表現することを目指します。
ここにド~シ(半音含む)鍵盤が12個あります。
スクリャービンは、このひとつひとつに自身のイメージする色彩を割り振りました。
画像編集疲れたー。
こんな感じです。異名同音略。
スクリャービンはドから5度(音から音の距離)間隔で音を書き記しています。
- ド=赤
- ソ=オレンジ色
- レ=黄色
- ラ=緑
- ミ=薄々青
- シ=薄青
- ファ♯=青
- レ♭=スミレ色
- ラ♭=濃いスミレ色
- ミ♭=メタリック色
- シ♭=グレー
- ファ=深い赤
なぜその音にその色を振り分けたんだい。と、聞きたくなりますが彼はこれらの『音』と『色』を融合させて、『聴覚』と『視覚』でも感じられる作品の創作を試みたのでした。
その最たる例が、スクリャービンが1910年に作曲した『交響曲第5番【プロメテ-火の詩】』です。
交響曲という名がついていますが、実質的にはピアノ協奏曲である作品。
この記事を書くにあたって、僕はこの曲を初めて聴きましたが、ピアノ作品と同様に後期のスクリャービンの作風が色濃く反映されています。
スクリャービンはこの曲の初演のために、鍵盤を押すとその鍵盤に対応する上記の色が発光する『色光ピアノ』なんてものを開発してもらったそうなんですが、当時は技術的に難しかったそうで、この試みは失敗しています。
今だったら照明技術も進歩していますし、電子楽器と照明をリンクさせればスクリャービンの試みを再現できますが、1910年ではさすがに無理そう…。
嘗て、マルタ・アルゲリッチがスクリーンに光を投影した演奏をしましたが、スクリャービンがイメージしたものを忠実に再現できたかというと、作曲者が故人である故に答え合わせは出来なさそうです。
Wikipediaにも『雰囲気と情緒をかもし出すために、プロジェクタによって舞台上にさまざまな色光を投影したが、これがスクリャービンの意図を忠実に再現した演出といえるかどうかは問題がある。』と書いてあります。
個人的にはこのスクリャービンの試みは面白いものだと思いますが、そもそも『音』を可視化させたところで多くの人からその『色』に対する共感を得る事は難しいのではないのでしょうか。
下記はあくまで僕の感覚ですが。
ド(ハ長調)=黄色(なんかドばっかり弾く幼少期の教本の挿絵が黄色メインだったから)
ソ(ト長調)=水色(ソ~は青い空~だから)
こんな感じで、音を聴く側の人間の経験、使用言語等でかなり多様化した潜在的イメージが植え付けられています。
スクリャービンが割り振った色にも、何故この色がこの音に対応しているのかと疑問というか、違和感を抱いてしまいます。
これは僕の感覚であって、他の人からしたらまた違ったイメージがあるかも知れません。
結果的にスクリャービンのこの試みと同系統の後続作品が後生で生み出されなかったから、前衛的な試みではあったものの一般に受け入れられるものではなかったのだと思います。
いずれ音楽史的な音楽の捉え方、楽派なんかも書いてみたいと思いますが、作曲者はエゴと言わんばかりの思想やイメージ押しつけるより、ある程度のテーマを提示するだけにして、あとは聞き手の自由な解釈やイメージに委ねてみるのが良いんじゃないかと僕は思います。
ところで、最後になりましたが。
今回、意図的にスクリャービンの文字色を紫にしていました。
何故かはわかりませんが、僕のスクリャービンに対するイメージ色です。
スクリャービン=紫
無意識にそんなイメージになりませんでしたか。