Piakanaの日記

音大ピアノ科卒。クラシック、ポップス、ジャズさまざま弾いています。音楽の事、日常の事など不定期投稿していきます。YouTubeに動画投稿していますのでリンク欄からご覧下さい。

最古の記憶

『親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間程腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかもしれぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら,同級生の一人が冗談に,いくら威張っても,そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫や-い。と囃し立てたからである。』

夏目漱石
坊っちゃん 冒頭部分よりー

Wikipediaより。






皆様の記憶にある1番古いものは何時のものでしょうか。

僕が大学の教育心理学で習った中で、『大体の人の1番古い記憶は3〜4歳のものである。それ以前の記憶は脳が未発達の為、非常に記憶されにくい』というものがありました。
つまり殆どの人間の記憶は、自分で歩き回れるようになり、ある程度人と簡単な会話やコミニュケーションが出来るようになってから形成され始めるというわけです。
4歳児の語彙はおよそ2000語と言われていますので、その日自分に起こった出来事の説明、「だって〜だから」という理由の提示等が出来るようになってくると言われています。
そのくらい発達が進むと、脳もその成長に伴い、その先何年も覚えている記憶が生まれます。
そういう記憶って何気ない日常の一コマだったり、本人にとって大事件だったりとその内容は人によって様々だと思います。

僕の最も古い記憶も、その例に漏れず3〜4歳の時のものです。
その時期の頃から、かなり断片的で順序もバラバラですが幾つか覚えている出来事があります。
家族とは「あーそんなことあったね」と毎回懐かしい話題になります。
それらの記憶は令和5年までずっと忘れられないものであったりします。
恐らくこのままこの記憶は続くのでしょう。
不思議ですよね。さっき上司に指示された事はすぐ忘れるのに。



最も明確に覚えているものの1つとしては年少か年中の時に起こった出来事です。
正に3〜4歳で記憶が形成され始める頃に起きた事なんですが、今でも鮮明に覚えています。

その日は晴れで、学年が上の男の子と幼稚園の教室で遊んでいました。
名前も顔も殆ど覚えていませんが、仲が良かったのかぴあかな君は先輩君の後ろをついてまわっていました。
遊び時間(自由時間)だったと思うんですけど、先輩君と入ったその教室は、使われていない机や椅子が沢山並べてある物置のような状態でした。
そしてその教室の廊下側の壁には窓がありました。

窓の側には椅子が置いてあり、先輩君はそれを使って窓枠によじ登り、下枠の上に立ち上がりました。

先輩君はそこから反対側の廊下目掛けてジャンプ。
幼児からするとそれなりに高さがあると思うのですが、彼は運動神経が良かったのか上手に着地に成功。
それを目の前で見ていたぴあかな君。
「僕にもできる!」と意気揚々に先輩君が辿った道に続いていきます。自分の運動神経の悪さもつゆ知らずに。

当時のやや肥満なワガママボディを必死に動かしながら椅子に上がり、そこから窓枠へ足をかけ…
そして遂に窓枠まで登る事が出来ました。
眼下に望む景色は、普段の目線からは考えられない特別なものでした。
それはあたかも富士山の頂上に到着した時のようなあの感動を彷彿とさせます。麓までしか行った事ないですけど。

すぐ下では既に着地にした先輩君が手招きをしています。
膝を曲げてぴあかな君はいざ飛び立とうとしました。

さあ翼を手にしたイカロスのように空高く舞い上がれ。


子供って頭が重いじゃないですか。
大人に比べてバランス感覚が悪いんですよ。
更に、ぴあかな君はそれに輪をかけて運動神経が悪いと来たもんだ。
この時期の子供の身体の成長って一年違うだけでも大きな差があります。
先輩君が出来たからといって、それを僕が何事も模倣出来るとは限りません。

ぴあかな君はその頂上にてバランスを崩しました。
真っ逆さまに頭から地面に向かって落ちていき、まるでパイルドライバーを喰らったかのように見事に顔面から廊下に激突しました。
墜落するオチまで完全にイカロスと一緒。

Wikipediaより。パイルドライバー




その後は、先生に介抱されながら職員室で母親の迎えを待ちます。
怪我の1番酷い箇所は下唇でした。
痛みなんかは忘れましたが、とにかく泣いてた。
口に当てられていた白いタオルが真っ赤に染まっていてそれがとても恐かったのを覚えています。
怪我の度合いに対する物差しなんて全く持ち合わせていない子供だったので大量の出血は印象に残ったのでしょう。
その映像は、今でも特に鮮明に覚えています。

そして、病院に運ばれて数針縫い、何回か経過観察で通院をしていく事になります。
暫くはガーゼを当てて生活する日々が続きました。
ガーゼを外せば痛々しい縫い目と、石原さとみもびっくりのふっくら唇がそこにはありました。

子供の治癒力とは早いものであって、割とすぐに元気に遊んでいたと思います。
しかし、それ以降あの空き教室に近づく事はありませんでした。
それから少しして引越しの都合で別の幼稚園に転園する事に。
最後の日まで空き教室前の廊下にはビビってました。

冒頭で引用した夏目漱石坊っちゃんの書き出しを見ると自分に重ね合わせてしまいます。
中学2年生の時に、国語の授業でやりましたが「これ俺やん。」と、シンパシーを人並み以上に感じていました。
でも、それよりこの授業では国語の先生が坊っちゃんに登場する笹飴をクラス全員に配ってくれた事の方が覚えています。
花より団子ですね。
中学生のぴあかな君にとっては、
夏目漱石=千円札のおっさん
でしかありませんでしたから。





数年前に仕事の出張で、偶然にも怪我した幼稚園の前を通る機会がありました。
時間があったので外から少し覗いてみると、幼稚園は休日だったので閑散としていました。
あんなに走り回りどこまでも広がっていると思っていた園庭は狭く、遊具や蛇口もとても低い所に設置されていて驚きました。
ここで幼児期の一時期を過ごしていたんだなーと少ししみじみとした気持ちになります。
園舎に目をやると、二階建てだった事も忘れていましたし、自分の教室や職員室の場所も全く分かりませんでしたが、負のオーラを放つ教室がありました。
一番端にある例の教室です。
約30年前、あの恐怖を体験した教室だけは直感ですぐにわかりました。

僕には霊感が全くありませんし、どちらかというとスピリチュアル的なものは否定する側です。
よく霊能者が「この部屋から屍人の怨念を感じるっ!危険なオーラを放っている!」とかいうテレビやってるじゃないですか。
毎度チャンネル変えるレベルで信用してないんですけど、この時だけはあの教室から負のオーラを感じ、禍々しい何かが見えました。
スピリチュアル的なものではなく視覚刺激が記憶に作用しただけだと思いますが。
その教室は、今でも物置として使用されている様子でした。
窓枠から廊下までの距離なんて大人になった今からしたらさほど大した事ないように見えましたが、幼児からしたら中々危険な高さです。
今思えば、自由時間に物置き教室に好き勝手出入りできちゃう管理体制や子供から目を逸らしてしまっていた先生ももしかしたらまずかったんじゃないかな?という憶測もできます。

社会人になってからは、割と子供と接する仕事を転々としています。
この自分の経験を基に、危機管理能力は高くキープしていきたいものです。

 

 

なに今日まじめ…

音楽関係じゃないし。

たまにはいいか。